| 追い込む演出法 Seibun Satow Jul, 4. 2010 「演出家の体が弱っているということは恐ろしいものだ。それが作品の上に如実にあらわれる。俳優さんたちに催眠術がかけられない。ともかくこっちの気持ちにどうしても乗り移らせることができなくなるんだ。そうしたいと思っても、その気力が何としても生まれてこないんだ。たまらないことだね、これは」。 黒澤明  追い込む演出法をこのデつかうプロデューサーやディレクター、監督、演出家がいる。テレビやラジオ、舞台、映画などいずれの業界にも存在する。ろくに打ち合わせやリハーサル、説明もしないまま、彼らは素人や若手芸人、経験の浅い役者をぶっつけ本番させる。追い込まれた精神状態になると、思いもよらぬことをしでかすと期待している。準備をしないことを誇らしげに語っている連中も少なくない。  しかし、これは自分が演出の何たるかを理解していないと明かしているに等しい。はっきり言って、彼らはわかっていない。それどころか、向上心に欠け、無責任ですらある。  こうした追い込む演出法を使わなかった一人が黒澤明監督である。「黒澤天皇」は俳優を厳しく大声で叱責することで知られているけれども、素人にはやさしく接している。  黒澤監督は素人を好んで登場させたが、現場に慣れてもらうように気をつかっている。『七人の侍』の村人たちの大半が素人である。撮影を始める前の一ヶ月ほどの間、彼らを毎日一定時間セットですごすようにさせ、現場に馴染ませている。  各種のメイキング映像を見ると、黒澤監督が怒鳴るのはベテラン俳優に集中している。『八月の狂詩曲』で、監督が最も激しく叱責していたのは主演の村瀬幸子である。彼女は1905年生まれで。監督よりも年上である。黒沢監督はベテラン俳優に対して追い込む演出法を用いている。  黒澤監督は、日本テレビ系で1993年5月6日放映の宮崎駿監督との対談『映画に恋して愛して生きて』において、ベテラン俳優を追い込むのは彼らに役者としての幅を持ってもらいたい体と言っている。俳優は、経験を積むほど同じような役ばかりこなす傾向がある。それでは成長しない。  小栗康平監督は、『映画を見る眼』において、素人とベテラン俳優について興味深いことを述べている。ベテラン俳優は撮影のことを熟知しているので、そこまで気をつかってくれるかというくらいまでしてくれるから楽だが、反面、自分のわかっている範囲でしか演技をしてくれないため、小さくまとまってしまい、新鮮味はない。他方、素人は知らないから、プロの俳優がチャレンジしないようなとてつもない演技をすることがある。ただし、それは一度きりで、二度目はない。素人はうまく使うと、作品が小さくなるのを防いでくれる。  黒澤監督の素人とベテラン俳優との接し方の違いは、おそらく、ここに理由がある。映画を小さくまとまらせないために、素人を使い、ベテラン俳優を叱咤する。非熟練にが慣れ、熟練には追い込みでいずれの人たちにも成長を促すことで、作品も大きく育つ。  もっとも、その黒澤監督も、『七人の侍』の撮影の際に、ある無名の若い俳優に対して、理由も告げず。半日以上も同じ歩くシーンを繰り返させている。宮崎監督との対談で、その俳優が刀を差して歩くことがわかっていなかったからだと述懐している。この馬の骨の名前を後に黒澤監督は「仲代達也」だと知ることになる。デジタルBS 2で2008年5月9日放映の『仲代達矢 黒澤映画を語る“七人の侍”や“用心棒”“天国と地獄”“乱”のエピソード』によると、彼はこの仕打ちを決して忘れず、『用心棒』のオファーを一度断ることで復讐を果たしている。  こうした論理的な認識の黒澤監督違い、いわゆる追い込む演出法の連中は場当たり的で、彼ら自身の発展に乏しい。ベテランにはこびへつらい、若手にきつく当たる。それはたんなる権威主義にすぎない。洗脳でよく用いられるように、相手の可能性を引き出すというよりも、自分の色に攻めているだけである。自身が小さくまとまってしまったことに気がついていない。こういった悪癖を一掃し、演出もリテラシーから再考する必要がある。  追い込まれるべきは素人や若手芸人、経験の浅い役者ではない。彼らの方だ。 〈了〉 参考文献 小栗康平、『映画を見る眼』、日本放送出版協会、2005年 You Tube |